中学受験界は、SAPIX・早稲田アカデミー・四谷大塚・日能研が「大手塾」として挙げられることが多いですが、20数年前、1990年代の業界の勢力図はまったく異なる形でした。
1990年代初頭に出版された『四谷大塚完全ガイド』をもとに、30年前の中学受験情勢を紐解きます。
四谷大塚「選抜試験」「会員・準会員」の時代
手元にあるのは『四谷大塚完全ガイド 91年版』。
著者は、現在も教育コンサルタントとして広く活躍されている、森上教育研究所の森上展安氏、それに安藤明氏のお二人で、四谷大塚監修のもと声の教育社から出版されていました。
時は、四谷大塚が会員・準会員制度をとり、東京では中野を頂点に、御茶ノ水→東京ビジネス→渋谷…と、学力順に日曜テストの会場が指定されていた時代です。
いまでこそ、中学受験ではSAPIXや早稲田アカデミーの存在も目立っていますが、1991年といえば、まだSAPIXは設立3年目、早稲田アカデミーも東京北部や埼玉、茨城などで一定の知名度がありましたが、まだ大手とみなされる前です。
当時、中学受験界では、開成中学といえば桐杏学園、武蔵中学といえば学習指導会など、予習シリーズを使う準拠塾が群雄割拠で、多くの四谷大塚生は平日は準拠塾に通い、四谷大塚の会場で日曜テストを受けていた頃です。
この準拠塾制度ができたのも1989年、ちょうどこの書が出版された頃で、1998年に「YTネット」がスタートし、会員・準会員制度も廃止される前の、今とは違う一昔前の四谷大塚の姿です。
そして、この本は、四谷大塚が1989年CI(コーポレート・アイデンティティ)に着手直後に出版されたものです。塾業界で1990年にCIというのを意識していたのはほかに思い当たりません。
現在の四谷大塚のロゴもCIの一環として作られました。
この青いロゴについて、『完全ガイド』には次のように記されています。
四谷大塚の新しいマーク、ゆるく波打った太い線の上にそら豆のようなかたちが踊っているデザインにご注目ください。波打った線は子供たちを受け止める「環境」、子供をあらわす空豆のようなかたちの柔らかなくぼんだ部分は子供のなかの「可能性」を象徴しています。
四谷大塚のロゴがそら豆と波をイメージしたものであることは、知る人ぞ知るものかもしれませんが、今は四谷大塚のウェブサイトを探しても、どこにも掲載されていません。
予習シリーズは小5から 選抜試験対策で準拠塾通いも
予習シリーズと、選抜試験対策としてのジュニア予習シリーズ・準拠塾
現在の『予習シリーズ』は小4から小6まで、それぞれ上下巻からなっていますが、当時は小5と小6の2年間で、『予習シリーズ 1』から『予習シリーズ4』までの4巻セットを消化するカリキュラムでした。『ジュニア予習シリーズ』は小4用の教材でした。
『完全ガイド』にはこのように記されています。
4年生の2月から6年生の1月までの2年間。これらが中学受験をめざす子どもたちが四谷大塚のシステムのなかで徹底的に知力を磨き知識を広げ、思考力を深めていくために準備された期間です。
この期間に四谷大塚に集まる子供たちの学習レベルはかなり高く、平均的な公立小学校でみると、クラスの上位四、五名以内の学力をもった子供たちに相当するといわれています。
四年生(三学期)、五年生、六年生の会員・準会員数はあわせて1万八千名。そのなかには、後々まで語りぐさになるほどの超・優秀時たちが毎年数名混じっています。
今でこそ、どこの塾でも小4からの3年間で必要なカリキュラムが組まれていますが、当時の四谷大塚は2年間、予習シリーズやその副教材などで学び、毎週日曜テストを受けるというのが基本でした。
とはいえ、多くの受験生が2年間の受験勉強だけで難関校に合格していたのかというと、それは違います。
四谷大塚の日曜テストに参加するためには選抜テストを通過しなければならず、それからの2年間は、東京ブロックの正会員(「会員」の通称)たちは、中野や御茶ノ水など、学力別に分けられた日曜テストの会場をかけながら熾烈な戦いに臨むので、実質的には小4から準拠塾に通うなどして、『ジュニア予習シリーズ』などで受験勉強を始めていました。当時、日能研なども小4から受験対策の講座を開講しており、「塾通いは小4から」というのは、当時からだんだんと常識的になっていました。
『完全ガイド』には、次のように記されています。
4年生の3学期の2月にスタートする日曜教室に参加するためには、4年生の2学期の12月に行われる選抜試験によって、会員・準会員の資格を手に入れておかなくてはなりません。この選抜試験にパスし、四谷大塚の日曜教室で学習するためには、たくさんの新4年生たちが4月にはいるといっせいに選抜試験対策の勉強を開始します。会員・準会員のパスポートを手にするためには、相応の準備が必要だということです。
四谷大塚の日曜教室の会員・準会員になるためには、選抜試験にチャレンジしなくてはなりませんが、そのための『ジュニア予習シリーズ』を使った学習を家庭内だけでこなしていくのが「ちょっとしんどい」という場合、四谷大塚の準拠塾で勉強するという手があります。実際に、かなり多くの受験生たちが4年生になるとこれらの準拠塾に通い、受験勉強の基礎を固めています。
『完全ガイド』には、準拠塾の広告がたくさん掲載されているのですが、四谷大塚の選抜試験通過率や、在籍率などが掲載されています。
準拠塾にとっては、「うちの塾で勉強すれば四谷大塚の選抜試験に合格しますよ」というのが売りになっていました。四谷大塚にとっては、準拠塾から優秀な生徒を送り込んでもらい、日曜テストを受け続けてもらい、最終的に合格者数にカウントできるといううまみがあったのです。当時の四谷大塚は、「予習シリーズ」を使って授業を行えるという提携を結んだ数々の準拠塾とウィン・ウィンの関係を築き、1つの巨大なエコシステムを構築していたのです。
1989年に初めて発行された小4の『ジュニア予習シリーズ』は、あくまで選抜試験に合格するためのテキストだったことが記されています。
この選抜試験では、日曜教室に入室し、四谷大塚の有名なオリジナル・テキスト「予習シリーズ」を使った学習をまず無理なくこなせる学力を身に着けているかどうかが審査されます。選抜試験への挑戦者のほとんどは、この試験に備えて四谷大塚から出されている『ジュニア予習シリーズ』で、選抜試験のための受験勉強をしています。
『ジュニア予習シリーズ』は、「四谷大塚にはいる前のこの時期、学習の基礎をきちんとつくるため効率よくつくられたテキストがどうしても必要だ」という強い要望が4年生の受験生とその親たちからかねてより出されていたのを背景に、平成元年、出版される運びとなった新教材です。
四谷大塚の「正会員」はブランド、資格喪失も
当時の四谷大塚は、「正会員(会員)」資格そのものをブランド化していました。
『完全ガイド』では、「選抜試験」がいかに厳しいかが記されています。
四谷大塚の会員・準会員のの資格を獲得するための機会は合計六回。四年生の12月の選抜試験を第1回目として、2回目が5年生の4月、3回目が5年生の9月、4回目が5年生の1月、5回目が6年生の4月、6回目が6年生の9月です。この6回の選抜試験のなかで、第1回目の4年生の12月の試験では、受験者の1割強が会員に合格します。準会員の合格率はそれよりかなり高く、8割程度。これが2回目以降になると、4回目の資格審査試験をのぞいて、外部からの会員・準会員受入枠がとても少なくなります。特に会員は、百名前後を外部から受け入れるのみで、新会員の8割くらいを準会員からの内部昇格者が占めるわけで、大変な難関といえます。準会員を含めた合格状況で見ても、外部からの受験者からは毎回3000名以上、多い時など5000名もの不合格者が出るといわれます。つまりこれだけの人数の受験者たちが、毎回、会員・準会員資格を手に入れそこなっているのです。比較的入りやすいといわれる1回目の選抜試験ですくなくとも準会員になっておけば、学期ごとに日曜教室の成績が検討され、その結果上位の成績が取れていれば会員に上がれるのですから、そうなると、やはり4年生の12月の選抜試験が一番のチャンスだといえそうです。
そもそも、「会員」「準会員」は、競争心をかきたてるための制度です。この頃、会員は、Cコース・Bコースに別れ、その下に準会員Aコースが位置していました。会員と準会員、あくまで学力別の違いで振り分けられる呼称です。
会員の資格にプレミア感を出した上で、小6に上がるタイミングには、資格審査試験なるものを設け、「選ばれし者のみが日曜テストを受けられる」という制度を構築していました。
いまのSAPIXのように、定員で募集停止はあるものの、1度入室したらそのまま通塾できるというのとは分けが違います。
小6にあがる際の、資格審査試験。準会員中18%が会員昇格、64%が準会員維持、18%が不合格者、つまり四谷大塚生の資格を失っていたそうです。会員では、80%が会員資格維持、20%が準会員へ降格していました。
小6進学後は、この資格審査試験以後、徐々に準会員から会員に昇格させ、会員の割合を増やすことで、生徒たちのモチベーションの維持をはかったり、準拠塾で行われる週末の特別授業のために日曜教室を退会することを防止するなどの対策もとられていました。
この頃は、四谷大塚が最大勢力でしたが、もとは「日本進学教室=日進」というのが進学教室のさきがけで、後発の四谷大塚は、日進に対抗するなかで、日曜テストに向けて家庭学習する予習シリーズや、学力別の会場編成など、この当時は一般的になったシステムを構築していったのです。
学力別会場についても、『完全ガイド』では、「会場アップ・ダウン・ゲーム」と称して、競争心を煽っています。
ちなみにこの頃の会場は、中野→御茶ノ水→東京ビジネス→渋谷→神田→早稲田→飯田橋→13時ホールという序列でした。週1回の日曜テスト。その会場こそが、当時の中学受験生にとって、重要な存在でした。「中野」といえば、いまのSAPIXでいう「α1」のような存在でしょうか。
当時から確立されていた「らせん式」
ここまで、四谷大塚のシステム面について述べましたが、カリキュラムについて、この頃から「らせん式=スパイラル式」という言葉が使われていました。
四谷大塚の日曜教室の学習では、「らせんで巻いていく」といういい方がよくされますが、これはつまり、例えば算数といった積み上げ教科のカリキュラムが、ゆっくりと「らせん状」に巻きながら上にのぼっていくように組み立てられているということを説明したもので、講習でもまたこの考え方が非常に効果的に生かされています。「らせん」で組み立てられたカリキュラムでは、具体的には、例えば「割合」という単元が登場すると、最初の段階ではまず「割合ってなんだ?」といった基本的な考え方が説明されます。それが、もう少したつと、基本的な「割合」の考え方を使って問題を解く「割合1」になり、「割合の2」「割合の3」と発展して、おしまいには「比」にまでいくというように、ぐるぐると「らせん階段」をのぼっていくように巻きながら学習の内容が深められていきます。
いまや、どの塾でも当たり前に取り入れられている「らせん式」などのカリキュラム、最初にそういう言葉を使いだしたのはどこの塾かは定かでありませんが、2年間で繰り返し学習するという方式が定着し、より科学的にカリキュラムが洗練されていったのもこの時期かもしれません。
親の役割は変化
一方で、『完全ガイド』から読み取れる、現在との大きな違いが、親に求められる役割です。
「予習シリーズ」という教材で、日曜テストに向けて予習するサイクルを構築する一方で、四谷大塚は、親が学習の中身まで深く立ち入ることはあまり想定していませんでした。
試験を受けるのは子供自身であり、5・6年生ともなると学習面で親が直接手を貸せる部分はとても少なくなってきます。結局、子供の中学受験に親のはたす役割は、走り続ける子供のそばをメガホンをもって自転車で伴奏し、子供の能力や調子を注意深く見守りながら賢明なコーチ役に徹することだといえそうです。
そうはいっても、実際は、この書が出版される実に25年前には、子どもが日曜テストを受けている最中に親が受講する「父母教室」がすでに始まっていました。
この書では「5・6年生ともなると学習面で親が直接手を貸せる部分はとても少なくなってきます」と言いつつ、子ども1人で予習シリーズをこなせるわけはありません。だからこそ準拠塾制度ができたわけですが、実際は親がある程度学習内容に関与しなければこなせない体系であり、平日は予習シリーズで学習し、週末だけ日曜テストを受けさせるという「進学教室」のシステムは不親切です。中学受験者数が増加する中で、親が家庭学習の面倒を見られない家庭も増えてきますし、準拠塾も乱立状態でした。
こうしたなかで、日能研は、予習は不要、塾に来て復習してテストを受ければ受験対策ができるという「親切な」システムを売りにしていました。
また、SAPIXは、東京・西東京(荻窪)・横浜の3校舎に加え、浦和、西船、たまプラーザ、登戸、松戸、1990年代半ばには、その後最大規模の校舎に成長する自由が丘、それに四谷大塚の聖地の中野や吉祥寺と、次々に校舎の展開を進め、「開成」の合格実績を着実に挙げながら、勢力を広げていきました。
そして、四谷大塚自体も、平日の授業は準拠塾に任せて(実際平日教室も開かれていましたが、通っていたのはごく一部の生徒です)、日曜テストだけ受験させるという「進学教室」的な制度にメスを入れ、「予習シリーズ」を提携塾に提供ながらも、平日の自前の授業に軸足を置くよう、「進学教室」から「塾」へと変化していきました。
1980年 お茶の水校舎
1986年 新横浜校舎
1990年 上大岡校舎
1992年 津田沼校舎
1993年 南浦和校舎
1994年 立川校舎、町田校舎
1995年 柏校舎
1996年 高田馬場校舎、大船校舎、蒲田校舎、所沢校舎
1998年 渋谷校舎
2003年 巣鴨校舎
2007年 市ヶ谷校舎
2008年 あざみ野校舎
2009年 大宮校舎、豊洲校舎
2010年 横浜校舎
2012年 センター南校舎、新百合ヶ丘校舎
2014年 人形町校舎
2015年 勝どき校舎
2016年 新浦安校舎、二子玉川校舎
2018年 吉祥寺校舎
2019年 西船橋校舎
2020年 日暮里校舎、日吉校舎
校舎の開設の歴史を見ても、1990年代なかばごろから、校舎の展開スピードを早め、「塾」に姿を変化させていった様子がうかがえます。
一方で、早稲田アカデミーのように、かつての「準拠塾」から「大手」へと姿を変えるライバルも登場しました。予習シリーズを軸にしたエコシステムは、準拠塾にとっては教材開発をしなくても済むというメリットがありました。四谷大塚が自前の授業に力を入れるようになるなか、衰退していった塾も数多くあるなか、そのメリットをいかんなく生かして、リソースを副教材の開発や学校別対策に注ぎ、成長したのが早稲田アカデミーです。SAPIXというエコシステム外のライバルに加え、かつての準拠塾からもライバルが出現したのが、その後の四谷大塚の姿です。
四谷大塚といえば「合不合」、それは当時から現在まで
こうした中で、当時から変わらない存在感を示しているのが「合不合判定テスト」です。
『完全ガイド』にはこう記されています。
この「合不合判定テスト」は、四谷大塚の室生以外に、外部から1万2千人以上もが受験する首都圏随一の大規模なもので、首都圏の一流中学校を目指す受験生のほとんどが受験するといわれています。
この数年前には、合不合判定テストに初めて「記述式」が導入され(意外に遅い!)、四谷大塚生に限らず、中学受験生にとって「合不合」は、抜群の知名度を誇る存在になりました。
ちなみに、東進ハイスクールを運営するナガセが四谷大塚の全株式を取得したのが2006年、その翌年には「全国統一小学生テスト」が開始しています。「全統小」は、四谷大塚にとっては、小学生低学年からの「青田買い」的意味合いも強いですが、「テスト」「模試」で存在感を示すという方式は、四谷大塚の設立当初から変わっていません。
中学受験は、「試験一発勝負」の世界。この『四谷大塚完全ガイド』からも、良くも悪くも「テスト」にこだわり続けてきた四谷大塚の姿勢が、はっきりと読み取れます。
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